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私が大学を卒業して初めて入った会社は大手国内アパレル企業のI社でした。 この会社には、出向期間を加えるとほぼ4年間勤務し、上司や同僚に恵まれて、多くのことを学びました。
しかし津田塾大学で国際関係論を学んだ私は、最初からアパレル企業への就職を望んでいたわけではなく、当初はマスコミへの入社を望んでいました。 マスコミは、今も当時も狭き門です。
かたっぱしから振られて、致し方なく入ったI社で、図らずもファッションビジネスにかかわることになったというのが本当のところです。 I社で最初に所属した部署はアクセサリー事業部でした。
ここは、洋服が主流だったI社では小さく家族的な事業部でした。 私はここで、新潟エリアを担当する営業ウーマンとなったのです。
先輩社員は数字をつくるのに忙しく、仕事を教えてもらえたのは入社してほんの少しの期間。 スーツを着たのはおそらく初日のみ。
後はジーンズにカットソーという軽装で、大きなスタイリストバッグにイヤリングやネックレス、ベルトやカサまで、あらゆる商品のサンプルを詰めて、ひとりで地方営業を開始したのです。 今でも新潟市内、長岡、小松、柏崎、高田自分で学ぶ、自分で見つけるなどの良き街並みや、親切にしていただいた地方の専門店の奥さんやご主人を思い出します。

その頃、大学時代の仲間の多くは丸の内の商社や銀行に職を得て、スーツにパンプスの楓爽(さっそう)とした姿。 私だけ都落ちしたような感じがしたものです。
でもやがて、私は水を得た魚のように生き生きとしてきました。 ビジネスの世界では、自分で創意工夫して、努力すればしただけ、ちゃんと数字に跳ね返ってくることが分かったからです。
手取り足取りの教育を受けなかったことも、型にはまりたくてもはまれない私にとっては幸いしました。 訪問した店の特徴や品揃えを見て、自分でセールストークを考え、店長やオーナーに売り込む。
自分のお気に入りのあらゆるタイプのセレクトショップを訪れて、ショップオーナーの意向やその土地のフアッション傾向を読み取り、提案する。 ファッション誌を見ながら、自分なりのアクセサリーの付け方をアドバイスする。
こうした方法を次々と自分で編み出しては、展開していったのです。 そしてさらに、自社以外のブランドを扱うセレクトショップを見つけると、どんな店でも飛び込んで新規営業をかけました。
自社製品かどうかなんて関係ない、あらゆる会社やブランドの製品をあたかも自社製品のようにみなして、「私ならこういうコーディネートをする」とお店の方に提案するのです。 この積極的な売り込みによって、数字も上がりましたが、私自身も地面が水を吸い込むように、たくさんの洋服やブランドを学ぶことができたのです。
会社の中では主流ではない小さな事業部であったことと、新入社員に懇切ていねいに仕事を教えている暇のない環境。 これらの逆境を逆手に取って、自分で創意工夫して結果を出す、そういう仕事のやり方を図らずも学び得たのでした。

私が初めて職を得た帥年代初頭は、一度会社に就職するとそこで定年まで働き続けるという考え方が主流でした。 会社に滅私奉公することを奨励するような「猛烈サラリーマン」という言葉さえありました。
私は、会社で働き続けるうちに、会社が求めるのは一生会社に忠当然」という今日一史があったのです。 その当時I社は、当時I社は、周囲の多くの企業と比べて福利厚生もきちんとし、恵まれた環境だったと思います。
しかし若くて血気盛んな私は、「そもそもアパレル業界で働き続ける必要はないんだ」とばかり、I社を飛び出しました。 その後、半年の間に、いくつかの異業種のアルバイトを経験しましたが、結局ピンとくるものがありませんでした。
その結果、「やはり私はファッションビジネスでいこう」と決意したのです。 誠を尽くして働く男性なのだと認識するようになりました。
「女性が男性と対等に働くのは」という今日では考えられないことですが、日本には、ほんの加年前頃までそういう前志を新たにし、面接を受けて入社したのが西武百貨店系のアパレル輸入商社であったエルビス社でした。 メーカーであり、販売も手がけていた国内アパレル企業のI社と違い、イタリアやフランスというファッションの本拠地から輸入した商品を販売するエルビス社のビジネスは、同じアパレルでもまた違ったスタイルでした。
このエルビス社の面接で、当時の社長がこう言いました。 「海外にはアタッシェ・ド・プレスという、デザイナーと同じように活躍する女性がいる・君もその職種に挑んでみないか」。
この言葉で、私は初めてファッションプレスの存在を知ったのです。 当時、エルビス社には広報宣伝部はなく、それぞれのブランドの中に、マスコミやファッションジャーナリストやスタイリストからアプローチがくれば窓口となるけれど普段は営業や商品のバイヤーをしている、という担当がいただけでした。
編集者やスタイリストとファッション誌に載せる商品について話し合うという仕事は、華やかな感じを醸し出すものでしたから、私が専任で広報宣伝担当になるという辞令に、仕事を盗られると思った元窓口から激しい抵抗や意地悪を受けたりもしました。 しかし私は、アルマーニ、フェレ、ミッソーニという扱いブランドの魅力的な商品群やため息のでるようなコレクションに魅了され、何が何でもここで生き続けようと決心しました。

一度ファッションビジネスから足を洗うつもりで離れ、「やはり私の働く場所はファッション業界しかない」と戻った経験が、強い決意となって仕事の継続を支えてくれたのです。 ところが「君をプレスに」と望んだ社長は、私が入社してまもなく会社から突然退きへ私そこからが、私の真のスタートでした。
先輩もおらず、管理部付きで上司もなく、ツションプレス人生はスタートしました。 思います。
を広報宣伝部専任にするという話はいつの間にか立ち消えになりました。 しかし私は諦めませんでした。
フェレの営業アシスタントとして倉庫整理や販売の手伝いをしながらチャンスを伺い、温厚で誠実な人柄の管理部長と、そして時にはトップと、談判を重ねました。 その甲斐あってやっと広報宣伝部が新設されました。
確か私が入社して半年以上が過ぎていたとプレスの仕事が何なのかまったく分からないまま、マニュアルもなく、文字通り手探りで、私のファ−985年、冬のことでした。 女性誌のページをめくると、ファッションページや美容ページに、旬の芸能人やモデルとともにファッションブランドのPR担当が登場し、そのブランドの顔として自社製品を紹介したり、商品説明をしています。
PR担当、広報担当、宣伝部、マーケティングマネージャRの人たちのことを、いつの間にかプレスと呼ぶようになりました。 略さずにいうとアタッシェ・ド・プレスとも呼ばれ、翻訳すると広報担当になります。
ファッション業界の中での一職種であるにもかかわらず、プレスは特殊なポジションのように見なされています。 その理由は、欧米のブランドのプレスの場合、ほとんどそのデザイナーの家族や非常に近いポジションの人たちが任命されており、彼らはデザイナーとともに華やかな社交界に現われ、その姿がパパラッチされるなど、あたかも芸能人のように扱われてきたからでしょう。

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